臨死体験から学ぶ

『寶塔山』平成26年お会式号から

臨死体験

日頃、初めてお参りされた方に「陰陽の法則」をつかって、現世(この世)と霊界(あの世)について説明していますが、ちょっと気になった「臨死体験」関係の本を数冊アマゾンで取り寄せました。

大変興味深い本ばかりでしたが、アメリカ人の医師、ジェフリー・ロング博士という方が書いた、『臨死体験9つの証拠』(ブックマン社刊)という本は、学術論文のような読みごたえのある本でした。

現代科学では証明のしようのない臨死体験という現象を、インターネットが普及した今だからこそ、世界中の臨死体験者の体験を、ネットを通して集め、精査し、分類して死後の世界を証明しようと試みています。

一般に、私たちが考えている臨死体験は、まず肉体から、肉体のない自分が分離した状態だと思います。体外離脱を経験した人がベッドに横たわる自分の姿を天井から見ていたという話は良く聞きます。肉体と肉体のない自分、二人の自分がそこには存在しています。

日本の法律では、死後24時間経過しないと火葬することは禁じられています。
それはその間に、生き返ることがあったからです。自分の葬儀の様子を見ていたという人もいますし、葬儀の途中に棺桶の中で蘇生したという話も聞いたことがあります。

話しが逸れますが、最近は、直葬といって葬儀をしない方もいるようですが、そんな話を聞くとどうでしょう。やはり葬儀は必要な儀式のように思います。
勿論、残された遺族の心の整理の為でもありますが、亡くなった方も葬儀の様子を見ていて、引導を渡されて、納得して死後の世界を目指されるのではないでしょうか。

さて、次の段階ではトンネルを抜ける感覚、これまでの人生が走馬灯のようによみがえる感覚があり、その先にある、いわゆる三途の川や、美しい花畑に到着されるようです。
そこですでに亡くなっている親族や友人に会って話をし、生き返った人は、その段階で「おまえの来るのは早いから帰りなさい」などと諭されて蘇生した方が多いようです。

そこで興味深いのは、生き返った多くの人が、帰りたくなかったと答えていることです。

死後の世界は先に進めば進むほど、愛に包まれた非常に心地よい世界で、無上の愛を感じたと答えています。

ここで考えてみたいのは英語のlove(ラブ)というのは、一方通行ではなく、対価を求める性質があるということです。私はあなたのことを愛しています、だからあなたも愛して。といった具合ですが、体験者が感じた愛というのは無償の愛と言うのは、仏教で言うところの慈悲や慈愛という、見返りを求めない性質のもののようです。

いずれにしても、体験した人たちが帰りたくないと言っているのですから、あの世は素晴らしい所なのでしょう。
最初に、学術論文のような本と書きましたが、研究発表としてみれば大変面白いことが書いてあります。そのいくつかを紹介します。

※体験は年齢に関係ない
 小さい子供も大人も、離脱、トンネル、感覚が変わる、視覚が強烈になる(生まれつきの盲人だった人でも物が見えた経験をされています)、回顧、死者との対面、光の存在といった同じ体験を語る。

※国も宗教も関係がない
 仏教は輪廻を説きますので、日本人はなんとなくではあっても、生まれ変わり、いわゆる輪廻を信じています。

しかし、例えばキリスト教では、人が死んで神のもとに召され、二度と生まれ変わって来ないと説きます。最近、浄土真宗の僧侶も、「人が死んだら何も無くなるから、本当はこんなことをしなくてもいいんだ」と通夜の説教で話されているようですが、臨死体験をした人たちは、国や宗教に関係なく魂の永遠、そして生まれ変わりを確信するようになるのです。

宇宙のしくみ・・

次にもう一冊、木内鶴彦さんという方の書いた『「臨死体験」が教えてくれた宇宙のしくみ』(普遊舎)は、読みやすく面白い本でした。

この方は二度臨死体験を経験されていますが、好奇心の塊のような方で折角臨死体験をしているのなら、生き返った時に確かめれるようになにか証拠を残しておこうと考えました。
霊体になると、時間も空間も自由に行けるので、数百キロ離れた友人に姿を見せたり、いくつかの実験をしてきたそうです。

そんなエピソードの一つに、江戸時代に行って、一人の歌人の体を借りて、自分の名前の「つるひこ」の「つる」と書いた話がありました。
木内さんは無事に蘇生し、元気になってから京都の一軒の家を尋ねます。
その家は、先祖が古今和歌集に出てくるような和歌の名家で、「ご先祖の歌に「つる」と書いたものがないでしょうか?」と尋ねたところ、「歌の上手な方であったのに、「つる」と書いた歌が一首あり、子孫の中ではなぜ意味もなく「つる?」と疑問に思っていました。それで謎が解けました」と言われたそうです。

他にもいくつかいたずらを仕掛けていて、次々に確かめられているとのことです。

そんないたずらだけではなく、宇宙の始まりを見たことも書いてあります。

木内鶴彦さんの見た、宇宙の出来る以前の姿は、ガスが集まったように見える、大きな意識の集まりであったとのことです。彼はそれを「膨大な意識体」と表現していますが、完璧にバランスのとれた世界、無の世界と感じたそうで、彼はあまりにも完璧ゆえに退屈に支配される感覚があったそうです。
しかし、あるとき一部にひずみが生じて、その部分がビックバンを起こして宇宙が誕生した、そんな宇宙が出来る様を見たと書いています。

私が「陰陽図」をお話しをする結論は、「現世(この世)」がある以上「霊界(あの世)」が無いと「現世(この世)」は存在しないということです。

ちなみに宇宙が出来た時、物質と反物質は半々で存在していました。しかし、化学が進歩した今でも、その反物質を確認することは出来ないでいます。ある学者は、ブラックホールにあるのではないか、また別の学者はダークマターに集約されているのではないかと仮説を立てますが解明出来ません。
反物質が無かったら、宇宙という物質世界は存在しませんから、どこかにはあるはずなのですが、それがどこにあるのかは解らないのです。

私は、多分科学では解明できないものだと思います。ちょうどそれは、現象世界と霊界、木内鶴彦さんの言う「宇宙」と「膨大な意識体」のような関係ではないかと考えるからです。

この世は修行の場所

では何故、「膨大な意識体」は宇宙を創り、地球を創ったのでしょうか。

仏教の、最終目的は『解脱』です。無上の慈愛に包まれた世界(仏界)に永住して、もう生まれ変わって来なくてもよいようになること(成仏)をゴールとしていますが、どうも私たちの魂というものは、性懲りもないもののようです。

日蓮宗には荒行がありますが、始めての行を終えて出てきた人は、もう二度と入りたくないと口を揃えます。しかし、11月になり寒くなってくると、また入りたいと思うようになります。

妊婦さんも最初の出産を終えたばかりの頃は、2度とこんな痛い思いはしたくないと仰いますが、数年もたつと「兄弟をつくってあげなきゃ」などと出産を望まれるものです。

日蓮大聖人様は『極楽百年の修行は穢土(娑婆世界)一日の功徳に及ばず』と示されました。極楽で百年修行した功徳より、苦難の多いこの世界で一日修行した功徳の方が大きいんだよと。

難儀なことですが魂は修行したいという欲をもっているのでしょう。だから修行場としての地球が必要なのです。

さて、死ぬのが怖いという人がおられますが、そんな方に木内鶴彦さんの本をお勧めします。死ぬことは怖いことではないと思えます。逆に楽しみになるかも知れません。
いつもお話しするように、私たちは「刻刻の生死」「日々の生死」「年々の生死」「一生の生死」を経験し、臨終を迎えた後、暫く次の生を待ち、再び修行の人生を始めるのです。