ご葬儀から学んだこと

『寶塔山』令和元年12月号から

ご葬儀から学ばされたこと

4月に長崎市の障害者授産施設に、30年余り入居していた方が亡くなり、ご葬儀を営みました。
私が大学の頃に入居されたようで、詳しくは存じ上げていなかったのですが、時々「大光寺に先祖の供養に行きたい」と希望され、施設の先生が連れてきてくれて、印象はニコニコしている穏やかなお爺さんでした。

ちなみに、授産施設とは、心身に障害があり一般企業に就職することが難しい人が、自立した生活を目指して働き、賃金をもらうことが出来る施設なのですが、三十年も居られたのでそれなりの貯えが残っていたようで、立派な祭壇が飾られていました。
参列者は、ごく少数だろうなと思っていましたが、大勢の人たちがお通夜に参列されていて驚きました。
施設の方が、みんなに慕われていて、利用者に声を掛けたら、自分もお別れに行きたいと、20名くらいを想定していたら、60名を超えました話してくれました。

さて、式場に入ると、片隅に所在なく座っている、三名の男女が目に留まりました。

控室にて施設の方が「最後に子供たちに会いたい。」というので、手を尽くし、娘さんの連絡先が分かってお通夜の連絡をしたところ、長男夫婦と長女さんが来てくれたとのこと。
それでも突然の連絡に、どう対応すれば分からないような感じです。最後、お棺にお花を入れる時も、長男夫婦長女は遠巻きにしてお花を入れようとされません。「ちゃんとお別れをした方が良いですよ。ちゃんとお別れをしないと後を引きますよ」と声をお掛けし、やっと花を手向けられたくらいでした。

思うところがあり、火葬場へ同行し、話をすることとしました。

実は、故人は酒癖が悪く、アル中で入退院を繰り返し、妻も子も、我慢の限界が来て離婚、その後施設に入られていました。
子供たちも、40年余りも会ったこともなかったお父さんでしたから、記憶の中の父親は、酒に狂わされた父の思い出しか無かっただろうことは想像できます。

しかし、火葬場で施設の方と話していると、大勢の人たちに慕われる故人の一面が伝わってきました。
更には、「施設ではお酒はダメなんですが、旅行に行った時だけ、少し飲むことが出来るんです。でも、いくらすすめても「俺は酒で失敗したから・・」と、コップに水を入れて気分だけ味わってましたよ」と施設の先生が話されました。

キチガイ水とも言われるお酒に狂い、家族や周囲に迷惑をかけていた時は、「三界は安きことなし。なお火宅のごとし」の経文の通りの、燃え盛る家の中にいるような、まさに地獄そのものの家庭だったんでしょう。ただ、人は心を正すことで変わることが出来るのです。
そのことを分かってほしい、両親、ご先祖がいて自分が存在するのだから、せめて影祀りでもいいので、お父さんに手を合わせてあげてほしい。そのことを伝えたい為に火葬場に同行したのです。
ただ、長男さんは、創価学会の会員みたいだから来ないだろうなとは思っていたのですが・・。

五七日忌に施設の方たちが、お骨を連れて来寺され、忌明け法要を営み、霊園に移動して、永代供養墓に納骨しました。長女さんもお参りしてくれました。

その後、長女さんから「七七日忌に兄弟三人でお参りに来たい」と連絡があり、この時初めて、次女の方もお参りされました。そして、「お盆には、またお参りに来させて下さい」と言って帰って行かれました。果たして、お盆には兄弟三人でお寺にみえて初盆のお経をお供えしました。

日蓮大聖人様が、『浄土というも地獄というもほかにはない。ただ、私達の胸の間にこそある。これを悟った人が仏であり、これに迷っているのが凡夫なのだ。法華経によって、それを悟った人は、地獄さえも極楽となる』上野殿後家尼御返事

『妙法五字の光明に照らされて、本有の尊形(本当の自分)となる』日女御前御返事、とお示しですが、本当に、その通りだなと感じました。

よく、正しい教えを実践すれば、正しい守り(利益)が現れる、逆に、現れなかったらおかしいでしょうと申しますが、正しいお題目は、固く閉ざされた、人の心をも、悪い思い出までも溶かすのだと感じました。

菩薩化・浄土化を目指して

立正安国論』の最後にはこうあります。

あなたは一刻も早く、間違った信仰を捨ててすぐに唯一の真実の教えである法華経に帰依しなさい。そうするならば、この世界はそのまま仏の国となります。仏の国は決して衰えることはありません。十方の世界はそのまま浄土となります。浄土は決して破壊されることはありません。国が衰えることなく、世界が破壊されなければ、わが身は安全であり、心は平和でありましょう。この言葉は真実であります。信じなければなりません、崇めなければなりません』と。

さて、12月1日の「日蓮宗新聞」の記事に興味深い文章が載っていました。
日蓮宗僧侶を目指すヨーロッパの人に「なぜ僧侶を目指すのか?」と聞いた。彼は答えた。「私の国の多くの人が信仰しているものは、全て絶対的なものに委ねられている。日蓮宗の教えは違う。主体は人間。私たちが世の中を良くしていく主役。この教えを広めたい

いつも皆様にお話しするように、私たちがこの世界に修行に来た目的は、この世を浄土にするためです。そのためには、一人一人が菩薩としての行動をすることが大事なのです。
それは、宮沢賢治の「雨にも負けず」にある、「あらゆることを自分を勘定(数に)に入れず」という精神です。常に自分は後回し、まずは周りを救け続けるという、菩薩としての心を持つことから始まります。

お陰様で、当山にお参りの方の菩薩化、家庭の浄土化は進んでいるようです。まだまだ妊娠・出産・結婚ラッシュも続いています。この良い流れが、令和2年度も、更にずっと続くことを念じてやみません。明年も共々にお題目の修行に励みましょう。  合掌