お題目とは

『寶塔山』平成25年お盆号から

今年も綺麗な蓮の花が咲きました。栽培方法を調べると、春に植え替えをしなければいけないようですが、面倒がって植え替えもしてあげていません。
植えてある甕にはひびが入り、水が少しずつ漏れています。決して蓮にとって良い環境とは言えないでしょう。ただ肥料はたっぷりあげました。そして、なにより一生懸命愛でています。

私たちがお唱えする『南無妙法蓮華経』のお題目は、『妙法蓮華経』に帰依する修行ですが、妙法とは神秘なる法則、その神秘の法則を蓮華に譬(たと)えられた経(おしえ)という意味で、蓮華がシンボリックに扱われています。
『法華経』の第十五番目『従地涌出品』には「不染世間法 如蓮華在水(世間の法に染まざること蓮華の水に在るが如し)」と説かれています。

ご存知のように「蓮華」は、汚い泥沼に植わっています。ひびの入った甕を何とかしようと思い、甕をいじっていますと悪臭がします。手につくのはどぶの匂いです。
しかし、そんな汚泥の中から出てきた華は清浄であり、葉は水滴を跳ね、穢れなどは寄せつけません。
「世間の法に染まざること蓮華の水に在るが如し」の教えるところは、汚泥こそが私たちの住む娑婆世界であり、「あらそい」や「ねたみ」や「そねみ」、また「怒り」「貪(むさぼ)り」「愚痴(ぐち)」のうずまく、現実の社会環境の中にあっても、自分はその汚泥に染まることなく、綺麗で清浄な花を咲かせる「蓮華」のような生き方をしたいと心がけることこそ、素晴らしい生き方だと教えているのです。

昨今の、就職難は心を痛めるところですが、中にはすべて社会のせい、人のせいにしている人が少なからずいるようです。
お釈迦様は、この世界を、穢土(えど)とも忍土(にんど)と称されます。
この世界は大変なことばかり多く、決して楽な世界ではない、けれどもそれは、この世が魂の修行の場所だからです。

思うようにならない。人生、裏目裏目にばかり出てしまう、そんな時こそ修行の期間なのですから、決してクサラズ正しい想念を取り戻すようにしなければなりません。

一つの苦難を乗り越えた時一つの学びがあり、知らず知らずに魂は向上し、昇華されていきます。

「蓮華」は「華果同時」といい花が咲いてから実がなるのではなく、花が咲くのと同時にその中に実を実らせている植物です。
花と実、つまり原因である「花」と、結果の「実」が同時にあることを表します。日蓮聖人は「仏性の蓮は衆生の身内に納まれり」仰せられました。
蓮の花が、その中に同時に実をつけているように、私たちも同時にその身の内に「仏性」という実を持っているのです

仏性」というのは、「仏」という字に男性・女性の「性」という字を書きます。「性」というのは心をあらわすリッシンベンに生きると書きますが、これは「もちまえ」という意味です。

ですから、男性といえば、もちまえの生まれつきが男であるということ、女性といえば、もちまえの生まれつきが女であるというように、仏性という蓮の実が、すべての人々の身体の内に納まっている。しかも、もちまえの生まれつきとして「仏」という蓮の実が宿っていることを教えいます。

結局人生とは、自分自身の中に納まっているところの「仏性」という宝を探す旅であり、苦難とセットになっている利益を体験して、魂が学ぶ為のものの様ですね。

先日、「うちはなんだか産婦人科になったみたいだね」、と口をついて出ました。

あのお寺にお参りすると子供が授かると聞き、紹介で尋ねて来られる方が多いのですが、次々に子宝を授かっておられます。そんな方たちが生まれた子供を連れてお参りされ、本堂の隅でミルクを与えたり、オムツを替えていらっしゃる姿をみて発した言葉です。
『陰陽』のことをお話しするときに、子宝の法則をお話ししますが、結果が現れてくるのは感激します。

私が、皆さんにお勧めするのは、『お経、懺悔文、お題目修行』ですが、そのような結果を見るたびに、その方の仏性が、お経・お題目によって、引き出された結果であると確信するのです。

本堂前の蓮華