『寶塔山』平成26年12月号から

今年を振り返ると

今年も、いろいろな事件や事故がありました。

年末にかけて今年を振り返る番組ばかりになるでしょうが、私にとって、今年一番ショッキングなニュースは佐世保市の高校1年生の女の子が同級生を殺害し、ご遺体を解剖した事件でした。

「人を解剖してみたかった」という身勝手なコメントには愕然としましたし、あまりにも事件が異常すぎて、私でさえ関連のニュースを見ると気持ちがふさいでしまいます。
同年代の子供たちが受けた心の傷はいかがなものかと心配してしまいます。

その事件の後、ある方から「殺された方の女の子は成仏出来るんでしょうか?」と質問を受けました。
その質問に私は、「ご両親、ご家族が心から彼女の成仏を祈った時に成仏されると思いますが、本当に辛い修行ではあるとは思いますが、ご両親が亡くなるまででいいから、加害者の女の子を心の底から恕(ゆる)せた時が本当の成仏になるのではないでしょうか・・」と答えました。

赦す(ゆるす)ということは、口で言うのは簡単ですが、実際に赦すということは難しいことです。
私達は、ちょっと気に障ることを言われただけでもなかなかその人を赦すことは出来ません。

まして、わが身に当てはめて考えれば、娘が惨殺された時に同じことが言えるかと言えば、とてもそんな心境にはなれない、そうは思えないよと言うかも知れません。

それでも、加害者のご両親に願うのは、赦すではなく、更にもう一歩先にある、「恕す(ゆるす)」なのです。

なんだか、国語の授業みたいですが、「ゆるす」という言葉にはいくつかの漢字があります。

「赦す」は、罪を赦すなどの意味があります。

次に「許す」は、何かをすることを認める、許可する時などに使う許すです。

そして「恕す」は、思いやりの心で、罪や過ちをゆるすという意味を持ちます。

これらを分けてみると

赦す―相手をゆるす。
許す―自分をゆるす。
恕す―すべてをゆるす。


同じ「ゆるす」という言葉でも、「ゆるす」ということへの心の幅や働きに大きな差がある事が解ります、
恕すということは、どんな酷い目にあっても、たとえ思想信条が違っていても、恕さなくてはならないのです。

それはお釈迦様にとっての提婆達多であり、日蓮大聖人にとっては、平左衛門や東条景信といった命を狙った人達に対して、提婆達多の存在で仏陀となることが出来たと説かれるお釈迦様であり(提婆達多品第十二)、「平左衛門尉はまことの神か」と、彼がいてくれたから本当の法華経の行者となれたと感謝される大聖人の御心にも近いものでしょう。

気になったニュース

気になったニュース①
朝日新聞が韓国併合時の従軍慰安婦問題について、強制は無かったとやっと認め、謝罪しました。

吉田清治という男性が何を思ったのか、自分の体験談のように、暴力で慰安婦を強制的に集めたという、全く無かった話を捏造し、従軍慰安婦問題というものが生まれました。現在韓国人のコミュニテーは世界中に従軍慰安婦像を建立しようとしています。

気になったニュース②
広島に原爆を投下した、「エノラゲイ」の最後の乗組員が亡くなりました。当時24歳だったそうですが、戦争を早期に終わらせるためには必要だったという考えの持ち主でした。

確かに沖縄の地上戦、全国への空襲、長崎、広島には原爆が投下されましたし、佐世保も空襲で焼かれましたが戦争末期になっても、天皇陛下の疎開なども検討されていたようですから、軍部にも大きな責任がありましたから、一利はあったと言えるのかも知れません。

気になったニュース③
こんな報道もありました。ベトナム戦争に韓国軍が参加し、フーイエン省各地で、ベトナム人を大勢虐殺し、多くの女性をレイプしたと・・。そのため韓国人との混血の子供が多数いるという事実が明らかになりました。

韓国国内でも報じられたようですが、言論は封殺されたようです。

恕し恕しあう世界

さて今日、佐世保に米軍基地がありますがアメリカ人が嫌いだという人はいるのでしょうか?アメリカ人は嫌いだという話は聞いたことがありません。
それどころか、基地内でアメリカンフェスティバルが開かれていましたが、とんでもなく大勢の人が楽しんでいました。アメリカの方と国際結婚される方も多い地域です。

日本人は忘れやすい民族だと言われますが、確かに昨日まで、鬼畜米英と竹槍で空を突いていた人たちが、終戦と共に「ギブミーチョコレート」になりました。

でも、単に忘れやすいというだけは説明できない感じがします。

韓国軍によって、ひどい仕打ちを受けた、ベトナムの人達ですが、「確かに酷いことをされたが、私たちは赦す。」と言っておられることも同様に報じられました。

対して、韓国ですが、従軍慰安婦問題が、フィクションであったと証明されてもなお、日本叩きが収まりません。
韓国は、「怨」の国と言われますが、何世代過ぎても怨みを忘れないという文化があります。

ちなみに、加藤清正公は韓国ではいまだに大悪人です。秀吉の朝鮮出兵で武勲を立てられ、日本では人気のある武将ですし、日蓮宗のほとんどのお寺では、「清正公様」(せいしょこさま)として祀られています。清正公様が亡くなって400年を過ぎているんですけどね・・。

仏教の精神こそ

では、ベトナムの人や日本人と、韓国の人とは何が違うのでしょう。

ベトナムも日本は仏教国です。韓国も、仏教とキリスト教が半々といわれますが、思想の根っこが儒教だからだと気が付きました。

日蓮大聖人が『開目抄』で「儒教の孝養は今生に限ったものだ。亡くなった父母を助けたいと思うならば、仏教以外の教えは有名無実である。」と示されていますが、儒教は倫理としては優れていても、宗教ではないということなのでしょう。

お釈迦様は次のように説かれています。

実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みのやむことが無い。怨みを捨ててこそ止む。これは永遠の真理である。』(ダンマパタ第5偈)

怨みは更なる怨みを生み、その連鎖は止まることは無く、常に我が心を焼き尽くすのだ。その怨みという執着を断ち切り、恕したときに本当の心の平安は訪れるのだということでしょう。

ちなみに第二次大戦に我が国は、敗戦してサンフランシスコ講和条約を受け入れましたが、スリランカは日本に対して全ての賠償請求権を放棄しました。日本を恕したのです。 それは、この第5偈の実践であったことを知ってもらえると有り難いと思います。

高校1年で無残な殺され方をした、被害者のご両親には、このお坊さんは、酷く無理なことを言うと思われるかも知れません。
ただ、ご葬儀が日蓮宗の僧侶により行われているのをテレビで見ました。どうか、お題目にすがり、お釈迦様、大聖人様の教えを学んで、どうか亡くなるまででいので、加害者を恕す修行をして頂きたいと心から念じます。

斯くいう、私達も今年1年を振り返った時に嬉しいことばかりではなかったかと思います。
ちょっとしたことで、人ともめたり、家族でも言い争いになったかも知れません。

今年ももうすぐ終わります。年の最後に、自らの行いや言動に対して、心からの懺悔をしましょう。

私達は、自分では気づかなくても、言葉や態度で人を傷つけることをしているものです。
そして、どんな酷いことをされたり、言われたりしても、恕せる自分になりましょう。

恕し恕しあう世界の実現の為に。その時、浄仏国土が、この世に現れるのです。