『寶塔山』平成27年お会式号から

恋愛相談も多いです
3月に初めての方で、30代独身の女性と、20歳の妊婦さんの2人の女性が来寺されました。妊婦さんはお供で、霊断にみえたのは30代独身の女性のほうでした。
お話を伺うと、好きな男性がいて、その方と交際できるようになるかを知りたいとのこと。その男性とは、彼がバツイチの時にお付き合いをしたことがあり、その後、彼は他の女性と再婚をされましたが、その結婚もうまくいかず、現在は独身。
お付き合いをしている時には、心を傷つけられたり太変な目にもあったが、どうしても彼を忘れられない。結婚は出来なくても彼の子供を産みたいくらい好きだと涙を流しながら話されるので、こちらにもその思いは伝わってきました。
霊断を取ると、全く縁が無いわけでもないようでしたので、まずは自分が変わることが大事だからと、懺悔のお行をお勧めしました。
その後、何度かラインにて自分の心の変化を知らせてみえましたが、5月になり、「自分からコンタクトを取ってみたいとも思いますがまだ勇気が無くて・・お行は頑張っています。」という連絡が来ました。
こちらとしても、お行を頑張っている人は良い結果が出てもらいたいと願っておりましたが、連休も開けた頃、「彼とお付き合いをすることになりました。トントンと話が進んで夢のようです」という、彼女の嬉しさが伝わるラインが届きました。

「愛するなかれ」の意味
お釈迦様は愛について、「愛するなかれ」と説かれます。
相思相愛ならばいいですが、相手に思いが伝わらない状態では、砂漠でのどが渇いて死ぬほどの苦しいような思いをします。
それを「渇愛」と言い、その解決策として、お釈迦様は「愛するなかれ」と説かれるのです。愛することは苦しいことだから、お止めなさいということです。
更にその苦しみを作っているものは、愛に執着する心(愛着)であり、煩悩によって起るものなのだと説かれています。
そうは言っても、人を好きになる心の働きは止めようとしても止めれるものではありません。。
私たちの恋愛の感情は、英語のラブと同じ感覚で捉えているようです。ラブは見返りを求めるものであり、私はあなたのことを好きなのだから、あなたも好きでいてという、相手を支配したいという心の欲求があるものです。
お釈迦様が「愛するなかれ」と仰っているのは、相手に見返りを求めてはいけないということです。仏教の愛は「慈悲」とか「慈愛」と言いますが、相手からの見返りを求めない無償の愛です。それは、母親の子供に対する愛情に例えられます。真夜中であっても、どんなに自分が疲れていても、赤ちゃんが泣けば母親は乳を与えます。一回幾らで子供が大きくなって請求しようという母親はいないでしょう。その心こそが、見返りを求めない愛なのです。
しかし、現実生活では互いに愛情を表し合い、確かめ合う必要があります。皆さんも結婚記念日や、誕生日などプレゼントをしたり、レストランで食事をしたりされていると思います。
それは、我が家とて同じこと家人の誕生日は2月15日なのですが、11日に星祭りが終わったばかりで、お堂の片づけや、御札の整理、発送などに追われしまうと誕生日を忘れてしまうことになります。娘に「お母さんの機嫌が悪いけど何か思い当たることある」と尋ね、ああ誕生日を忘れていたなんて年が続きました。
そんな反省から、誕生日が近づくと互いにメールで連絡をするようになり、今年も娘から「お母さんの誕生日今日だけど忘れてないよね!」と連絡が来ました(笑)。
いつもお話しする『陰陽』では、男性は出っ張っているから「陽」、女性は引っ込んでいるから「陰」とされます。
陰陽図を説明する時に注意するべき点としてお話ししますが、図では陰陽が半々になっていますが、実際は刻々と変化しているものです。日によって御主人が癇癪を起して「陽」の気が強くなったり、奥様がヒステリーを起こして「陰」の気の方が強くなったりするものです。
夫婦でも、カップルでも良い関係を継続していこうと考えるならば、陰陽のバランスを取っておく必要があります。そこにはお互いの思いやりと、少しばかりの努力も必要なのです。

いくら親子でも・・
それから暫くして、一緒にみえた妊婦さんの方に悩みがあるのでお伺いしたいという連絡があり、またお2人で来寺されました。
彼女は母親との関係で悩んでいました。お母さんは離婚されていて母子家庭、高校3年生の妹がいる家族。ことの始まりは、「絶対ダメ」と結婚を反対され、結婚後は一切の連絡が無くなり、ついには「親子の縁を切る」と言われたとの事。
彼女も、今の幸せを大事にしたいので、自分も親子の縁を切っても良いと思っているとのことでした。
霊断をし、あなたが母親との縁を切るのはかってですが、お腹の子には良い判断とは思えません。なぜなら、お腹の子にとって、おばあちゃんは先祖になる方、お子さんと先祖の縁を切ることは決してしてはいけないことだと思いますよと諭し、やはり懺悔のお行を勧めました。
6月に入り、その方から、「母親から出産予定日の問い合わせがあり、少しは心配してくれているんだと嬉しく思いました。」というラインが届きました。出産予定日は6月13日だったのですが、6月9日に再びラインにて、「母親と仲直りしました。産後ひと月介抱してもらえることになりました。」という嬉しい便りが届きました。
その翌日、「母親も懺悔のお行がしたいと言っているので、今から連れてきてもいいですか」との連絡があり、母娘でお見えになりました。お話を伺うと、お母さんは職場の人間関係で深く悩み、自分のことで一杯一杯で、子供たちのことまで気が回らない状況にあったことを娘も始めて知ることになりました。
よく分かり合えていると思っているはずの親子でもそんなものです。私は、まだ他人の方が心の内が分かるような気がします。それは、言葉も聞けるし、表情も観察できるからです。
では、誰の心が一番分からないかと言うと、それは自分自身の心が一番分かっていないように感じます。

心は転がるもの
さらにその後ですが、お盆の頃、彼氏と復縁をして幸せ一杯のはずの女性から、久しぶりにラインが届きました。彼が、二度と結婚する気もないし、子供もつくらないと言われショックだという内容でした。「相手を変えることは出来ないので、自分が変わることでしか相手を変える方法はありませんよ」と返事をしましたが、結婚出来なくても彼の子供が欲しいくらいに好きだと言っていたはずなのに・・と感じます。
心は、ころころ転がるからこころ、なんてダジャレみたいですが、実際にそう思う方も多いでしょう。
迷うという字は、シンニュウに米と書きますが、この場合の「米」は、四方八方に伸びている道の真ん中で、どっちに行こうか、どこに進入しようかと迷っている姿だといいます。何も形あるものだけが一定していないわけではなく、形のない心の方こそ、定めの無いものだといえます。この世が無常である前に、心が無常です。
きのう思っていたことを、今日の心はもう覆してしまいます。だいたい約束ほどあてにならないものはないでしょう。『神前で誓いの契りも早や違い』なんて句がありますが、結んでは切れるのが人の心の糸です。
転がる物は自然の法則として、下の方、低い方に転がりますが、心も転がると、どんどん下の方へ行きがちになります。下の方が楽だからです。そうなったら、なかなか上に登れません。だからこそ、振り子が左右に揺れながらも中心に帰ろうとするように、私たちは日々お題目をお唱えし、感謝と懺悔の生活を営みながら、いつも自分の心の動きを観察しておく修行(観心)が必要なのです。